日和見アカデメイア

ゆるく書いていきます!

異性の服を着る行為についての考察

 久しぶりにブログを投稿してみる。最近、情緒不安定な心理状況でブログを更新する気持ちになれなかった。少し心理的にも落ち着いたので久しぶりに更新してみる。

 以下においては以前、暇な時に考えた「異性の服を着る」という行為に関する考察である。この考察を考える上で参考になったのはYahoo!知恵袋の質問として投稿されていた「なぜ男性の女装は不評(不愉快)とされているのに、女性の男装は社会的に許容されているのか」という命題であり、以下の文章はこの命題を軸に論じられている。

 

「なぜ男性の女装は不評(不愉快)とされているのに、女性の男装は社会的に許容されているのか」という一般論に対する考察

なんでこのような現象になっているか?

1、肉体的な男女差

2、社会的な性差 いわゆるジェンダーの違い

 

 1は、男性と女性とは明確な肉体差がある。男性と女性は第二次性徴を境にハッキリと違いが出てくる。元々、同じくらいの高さの声も一オクターブも変わるし、肉体的にも男女の特徴が出てくる。女性は丸みが出てくるし、男性はゴツゴツとした体つきになる。

 女性が男性の格好をするのに違和感がないのは、男性が男性らしくなる前の少年の姿を再現できるからにほかならない。また、現代の日本においては華奢な男性が人気なため、男性に比べて小柄な女性の男装は許容される要因の一つなのではないだろうか。

 逆に、男性が女性の格好をするというのは、違和感が出てしまう。女装とは、女性的な格好、フェミニンな格好である。フェミニンな格好とは、スカートだったりフリフリした服装だったり女性のみが身につけることができるとされる服装のことである。大抵の場合、男性が女性の格好がしたいと思う場合は若い女性の格好が多い。つまり露出が多い格好が多いのだ。ミニスカートだったりキャミソールだったり、女性的な体のラインを出す服が多いのである。

 そのため、男性が女性の格好をしてしまうと男性のゴツゴツした体つきが目立ってしまう。現代の日本において男性のようにゴツゴツした女性に需要がない。そのため男性の女装には違和感が生じてしまうのだ。

 2は、肉体的な差ではない社会が欲求している性別の差である。ジェンダーには職業だったり服装だったり家庭での役割だったり様々な要素がある。女性は職業的ジェンダーや家庭的ジェンダーからは束縛されている。だが、服装的なジェンダーや文化的ジェンダーからは開放されている存在であるといえるだろう。

 ウーマンリブ運動など女性運動などが活発になるに従って、女性の社会進出が促進された。その結果、女性が元々男性的な服装とされていたパンツスタイルの服装やジーンズなどはくことが違和感なく行われるようになったのである。これは男性側に女性が寄っていく流れの一つである。また、文化的にしても男性的な文化に傾倒する女性は社会からはあまり排除されない。サブカルチャーにおける萌え文化など男性向けのコンテンツに耽溺する女性はそこまで糾弾されない傾向にある。

 その点で男性は、文化的ジェンダーや服装的なジェンダーに縛られている存在であるといっていいだろう。女性の男性的な格好は社会的には認められているが、男性の女性的な格好は一部のマイノリティを除いて広まってはいない。また、頼りない男性のことを「女々しい」という侮蔑語で罵ることや、「男のくせに勇気がないのか」と評価する傾向はまだまだ根強く存在している。

 これらのことは、男性は社会を背負う役割を期待されているからにほかならない。従って、社会的責任を抱える男性は女性的な服装であるとか、文化に傾倒すること自体、タブーであるという一般論が形成されるのである。

 では、これらの現状を踏まえて私自身の考えを述べていきたい。私は男性も女性も好きな服装で生活ができる文化的ジェンダーの壁がなくなることを望んでいる。人げはどこかパターン化された生活を望んでいる。新しいものに対してはどこか懐疑的だし、若者から勃興した新しい文化に対する年長者の冷たい目線はいつの時代でもよくある現象だ。

 このような現象が常にあるため傷ついている人が少なからずいる。性的マイノリティの問題もこのような一般論から生じている現象なのではないだろうか。過激な露出だったり、不潔な服装など男女問わず、公共の福祉を著しく乱す服装は正されなければいけない。しかしながら、メンズスカートのように男性用に改良された女性服であったり、落ち着いたデザインの女性服を男性が着るなどの行動を許容するくらいの社会であってほしいと思っている。表現の自由、良心の自由、思想の自由など様々な自由を保障している日本国にはこのような自由な服装をする社会を作れると私は期待している。

 

マルサの女を見て

 いやー面白かった。この一言で表せないくらい面白かったけどとりあえず本当に面白かったのでこの言葉で記事を始めたいと思います。

 脱税を取り締まる国税専門官(査察官)の活躍を描いた「マルサの女」は1987年に公開された伊丹十三監督の作品です。

 

マルサの女<Blu-ray>

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  警察の活躍を描く作品というのは結構ありますよね。例えば「太陽にほえろ」とか「西部警察」とか…でもこの当時、国税専門官を描く作品って少なかったっていうか初めてだったんじゃないかなぁ…。しかも普通のサラリーマンの人にはあまり縁がない脱税の手口とかの綿密な描写は見ていて感嘆しました。(やっぱり女性は女性の武器を使っていましたね笑)

 

 最近だと銀行を舞台に繰り広げられるサラリーマン時代劇「半沢直樹」も大ヒットして経済小説ブームなんか巻き起こりました。マルサの女もベタベタな恋愛も出てこないし結構固い雰囲気で話が進むんですがたまに入るコミカルな表現がクスリと笑いを誘います。

 

 僕の将来の夢っていうか目標?は三つくらいあって…「国税専門官(または税理士)」「臨床心理士(心理学研究者)」「起業家」なんです。(お前には無理だ!って話はおいといて笑)ちょっとこの映画を見てもっと国税専門官のことを知りたくなりました。いやーかっこいいなーこの仕事。

 

おわり

教養とはなんだろうか

 頭いい人が好きな女子は多い。反対に理解してくれて受け入れてくれる女性がいいという男子も多い。この二つに共通しているのは知性だ。では知性とはなんなんだろうか。純粋に偏差値の高い進学校からエリート大学に進んだ人のことか?社会的地位が高い人?はたまた哲学者のことだろうか。この教養に関する僕の疑問は尽きることがない。

 

 はっきりいって僕自身は知性の欠片もない。感情的だし理性的にモノを考える習慣も頭の回路には定着していない気がする。それでも過去の哲学者が書いた本には非常に興味があったり、思想の本や社会学の本など読み漁るなかなか変わり者の人間だと思っている。「勉強はできないし生産性もないけど学問は大好き」という変な奴が僕だ。

 

 こうゆう変わり者の僕が考える知性とは他者を認められる力だと考える。世の中は自分と行動も意思も違う社会的存在である人間との関わりでできている。その違った存在を受け入れる余裕がある人を「知的な人だなぁ!」といつも感じるのだ。人間はどうしても自己中心的に行動してしまうものだ。なのでバイアスがかかった見かたで世の中を見てしまう。「◯◯系な人はダメだ!」「最近の若者は…」みたいな。そのバイアスを人間なら誰しも持っているものだがその偏りを考慮しつつ他者を受け入れ尊重する人を僕は知的な人だと感じてしまう。そうゆう人は意外と身近にいるもので学歴も職歴も普通の人だったりする。そうゆう人を日々リスペクトして毎日を楽しく生きていくヒントを盗んでいきたいと僕は考えている。

スーパーマーケットのアルバイトを始めました

 今回は日記です。最近、スーパーマーケットの品出し(グロサリー業務)のアルバイトを始めました。夕方から夜までの4時間勤務ですが立ちっぱなしでハードな業務にバイト3日目で心が折れそうです。

 21年間生きてきて初めての労働です。父が飲食店をやっているときは手伝いのような形で働いたことはありますがまったくの他企業での労働は初です。ぶっちゃけニート思考の私は甘えに甘えにここまで来てしまいましたw

 

 人間は社会的動物というのは自明の理で複雑な人間関係の中で成立しています。それは家族共同体や会社共同体などどんな共同体にも働いている原理といえるでしょう。働くという行為はこの社会的動物であるがゆえの分業で成り立っているのでコミュニケーションなどの協調性が非常に求められるとアルバイトを通して実感しました。社会人という言葉は正直好きじゃありません。アルバイトだろうと派遣社員だろうと主婦だろうと社会の一員であることには変わりないし社会人というかっこいい言葉じゃなくて労働者でいいんじゃない?っていつも思いますw

 

 正直、ガチで社会という荒波を渡っている人からすると「このガキが!バイトだろ!」とか罵詈雑言が飛んできそうですが多めにみてやってくれませんか。僕はどちらかと言えばスロースターターなんです。じっくり考えて行動を起こすのろまタイプなんです。そうゆう僕がやっと開いた労働者への道。人生の先輩方ぜひとも優しい目で見守り仲間に入れてやってください。

戦争について

 世界中が慌ただしい。シリア情勢であったりイスラエル軍ハマスの紛争、ウクライナ情勢など多数の被害者が出ていて血や涙を流すひとが連日増えている。こうゆう悲惨なニュースを見ていると「歴史は繰り返す」という言葉ほど強く胸に響くことはないなぁと感じている。以下においてこの凄惨なニュースにおける個人的な考察を述べていきたい。

 経済危機や資源の争い、領土問題…争いが勃発する原因はたくさんあると思うがこれらの原因に共通する事柄があると僕は考えている、順を追って考えていこう。

 様々な評論家や学者の方が主張していることだがグローバリズムナショナリズムの争いが生じていると私自身も感じている。国際化が強まるということは無国籍な経済強者が生き残る時代であるといえるだろう。この経済強者のための政策を政府は打ち出すし産業界もそれに答えてますます効率化を進め無駄をなくしていく。

 このサイクルの中で溢れるのが弱者だ。ここでいう弱者は経済弱者である。僕は内田樹さんという思想家の考え方に非常に共感を持った。彼は「英語が話せなくて自国でしか生きていけない国民」が取り残されてしまうことについて強い懸念を表していた。この取り残されてしまった人たちは自国が戦争になったら被害を一番受けてしまう。反対に経済的な強者は資金力を武器に海外に逃げることだって可能なわけで自分自身の富さえ確保できればいいわけだ。

 この状態は経済弱者は必然的にナショナリズム的な甘い言葉に騙されて独裁が生まれてしまうという構図ではないだろうか。かつてのナチスドイツのように。このナショナリズムの勃興というのは偽りのナショナリズムである。

 私自身の考え方は国籍をハッキリさせお互いに文化や考え方を認め合う世界である。認め合う上で残す部分は残すし海外の素晴らしい知恵を取り入れるなど試行錯誤していくのは非常に大切なことだと考えている。なので外国に対して武力で攻撃をするのは「戦いが戦い」を呼ぶ構造なのだ。仮に戦争に勝ったとしよう。この戦争に勝った国は負けた国に対して優越感を持つのかもしれないがそれは一時的だ。また戦争で勝たなければいまの状態を保つことができない。なので永遠と戦争しなくてはいけなくなる。この悪いサイクルを生み出すのがナショナリズムなのだろうか。僕には考えられない。

 

 

日本人的な自我に関する個人的考察

 このブログでは学術的な知識や研究成果などを抜きにして個人的な考察を書いている。自分が持っている少ない学問的材料を元にして粗末な料理を作っているという状況なのだがある種の脳トレーニングの一つだと考えており知識のまとめのようなブログにしたくないという個人的な考えからこの手法をとっている。なので引用が少なかったりソースが曖昧だ!という意見を持つ読者も多いと思うがご了承いただきたい。仮に今日起こっているニュースに関して論じる場合は出来る限り事実のソースを示しながら論じていきたいと考えている。

 今回のテーマは自我についてだ。日本人は自我が他国の国民に比べて確立していないと言われている。そのため自殺の問題であったり異常なコンプレックスを持つ若者が多かったりなど僕自身の周りでも非常に感じることが多い。僕自身、非常に劣等感が強い人間であったため自分の存在意義を他人に求めている部分が多かった。そのため優越感に浸りたいがために他人を見下す態度を取ることも多かったし感情的に自分自身を殺し自己不在な状態が長年続いていたと今振り返ってみると感じている。以下において日本人における自我について論じていきたい。

 

  • なぜ劣等感を持つ人が多いのだろう

 日々の大学生活を見てみてもツイッターで自分がフォローしているユーザーの方々を見ても劣等感に苦しんでいる人が本当に多いと感じている。「自分に自信が持てない」「低学歴で死にたい」「低所得だから周りが羨ましい」などなど様々な劣等感に関する声が飛び交っている。日本人独特の僻む習慣はいろんな所に隠れていて僕達の生活に潜んでいる。そんな劣等感だが、なぜここまで自分自身の欠点に固執し苦しむ人がいるのだろうか。自分を受け入れたくない人が多いのだろうか。周りと一つの価値をピックアップして競争したがるのだろうか。その答えは自我の確立にあると思っている。

 日本人は非常に共同体に属し安心感を得る所属感に幸福を感じる民族であるといってよいだろう。村落共同体や会社共同体などの強固な共同体意識を持つことによってアイデンティティが確立され自分らしく人生を生きることができるというシステムだ。なので周りの意見や評価などは自分の存在意義への直結した材料であるため共同体からの追放が怖く共同体への依存が激しくなると考える。そのため会社共同体がデフレによる不景気により不安定になればなるほど生きがいを失う人は現れ、自殺者が増えていくという悪循環が起こってしまう。

 従って異常なまでの劣等感の正体は共同体の不安定さからくる心理的な不安感であると考えている。不安なため何かに頼りたいそのためには自分より下の人を見下し優越感を得てある種の特権階級な自分を演じたいのである。相対的にしか自分の価値を測ることができなかった日本人にとっては絶対的な自分の価値を自分で認めることは困難であり今すぐ改善できる問題ではないだろう。

 

  • 自分自身は価値があるのだと認めること

 見た目への劣等感であったり知性に対する劣等感など様々な劣等感があるがこれらは自分自身が生み出した幻想による理想像である。自我が形成されていなければ理想は海よりも深く山よりも高くなってしまう。なので常に一番にいなければ気が済まない辛い心理状況に陥ってしまう。

 このような自己不在な状況は自我の形成によって改善することが可能なのだがこの自我の形成の仕方は自分を受け入れることではないだろうか。自分を受け入れさえすれば何も恐れることはない。共同体から追放されようが自分は自分なのである。誰からも値札を付けられる存在ではない。しかしながら、受け入れるという当たり前のことが今の日本人にとって非常に辛いことなのである。

 日本は戦争に負け欧米的な価値観に染まってしまった。身長は高いほうがいい、鼻は高いほうがかっこいい、一重まぶたはかっこ悪いなどなど根底にあるのは白色人種に対する劣等感なのだ。この民族病のような劣等感を変えていかなければ日本は心理的にも国際的にも独立することは不可能だ。アジア人にはアジア人の良さがある。その良さを最大限に尊重する社会にしていかなければいけない。

 

  • まとめ

1、中間的な会社共同体の衰退から心理的な不安を抱える人が増えた。

2、劣等感は自己不在と自己嫌悪が原因である。改善方法は自分を受け入れること。

3、劣等感によっては白色人種に対する劣等感も含まれている。

中小企業を駆逐しちゃう?これからのニッポン

 日本人の7割以上が働く場所が中小企業である。皆が公務員&大企業で働いてる国ではない。中小企業こそ日本の宝といっても僕は言い過ぎではないと思っている。

 

 そんな中小企業だがグローバル化という国際分業体制においての駆逐化が進んでいるのは皆さんもご存知のことであろう。大企業はコスト減を求め海外移転を繰り返している。このため大企業の下請け企業など地域工業集積地帯への打撃は日に日に大きくなっている。私が生まれ育った岩手県に関しても北上市などを代表とする自動車企業などの工場群が展開されていて同級生などは高校を卒業と同時に自動車工場に就職する人がたくさんいた。

 

 しかしながら今日においてはグローバル化の低賃金地域の争奪戦により東北の岩手県東南アジア、東アジアに敗北をしてしまった。そのため産業の空洞化減少が深刻な問題となっている。

 

 このようなグローバル競争は最終的には大企業のみが富を独占する19世紀のマルクスが想像していたような時代に突入するのでは?と考えてしまう。何かの本のキャッチフレーズに「大昔にブラック企業と戦った先輩、それがマルクス」と書いてありうまい言い方だなぁと関心してしまった。

 

 労働者の立場を弱くしたいのは企業の立場からすれば当たり前だ。中でも非正規労働者は使い捨てができるから都合がいい存在である。例えるなら貢がせるだけ貢がせといてポイっと恋人の男を捨てる性悪厚化粧ナルシスト女のようなものだ(この例があっているかどうかはみなさんの判断にお任せします)今日の政府はこの貢がせるだけ貢がせて捨てられる労働者を生み出そうと頑張っているようにしか見えない。安倍内閣の金融政策・財政政策・外交姿勢に関してはリーダーシップを感じる部分もあり賛同できる部分は応援してきたつもりだ。しかしアベノミクス第三の矢である成長戦略については熟考を重ねる必要があるのではないだろうか。ある民間議員は「正社員が最大の既得権益だ!」と主張したらしい。この発言に対しての私の考えは部分的には賛成である。その賛成する部分としては転職の困難さを解消できないものかという部分だ。大学卒業または高校卒業と同時に職業訓練は企業が研修等で行い企業に忠誠を誓うような社員を育成する新卒採用制度や年功序列制度などを改良していくべきだと私は考えている。人によって人生は何通りもあり一つの優等生的な新卒者ばかりを優遇する入社制度は時代遅れなのではないだろうか。

 

 いつの時代も資本主義のマネーゲームは繰り広げられている。正直そこまでお金を儲けて何がしたいのだろうか?

「幸せな生活?豪華な暮らし?静かな田舎でのまったりした生活?それとも目的なんてない?」

 

 資本主義の魔法にかかった人は鋼鉄の心を持ったロボットになり労働者から搾取する時代はいつになっても変わらない。こんな時代だからこそアルフレッド・アドラーが提唱する共同意識の考え方が重要になってくる。競争だ!と周りを敵として見てしまうことは非常に人生にとってマイナスだ。経済はぐるぐる回っていて結局は皆の頑張りは自分に、自分の頑張りは皆に循環している。そうゆうシンプルな構造のなかでグローバル化はシンプルな構造を複雑にしているのではないだろうか?

 

 こうゆう世の中だからこそ生産的な行動ばかりに目を向けないで非生産的な喜びを見出したいものだ。