日和見アカデメイア

ゆるく書いていきます!

現代のペスト「嫌われたくない症候群」について

 僕は最近、加藤諦三さんの本をよく読みます。彼の著書は一貫して「嫌われたくない病」について明快に分析しており、実際に嫌われたくない病の僕にとっては目からウロコのオンパレードでした(笑)

 今日のブログにおいてはこの「嫌われたくない症候群」について自分なりのまとめを論じていきたいと思っています。

 

 多かれ少なかれ、万人からチヤホヤされたいという欲求を持ってる方多いのではないでしょうか?

 「可愛い女の子からモテたい!」「イケメンの男性から言い寄られたい!」「億万長者の会社社長になってみんなから尊敬されたい!」などなど…

 しかしながらこれらの無茶な要求って果たして本当の自分が求めている要求なのでしょうか。僕が思うに彼らは劣等感からくる不安定な気持ちを押さえつけるために無茶な要求を自らの心にしていると思っています。

 なぜ僕がそう思うかといえば彼らの自らの要求には具体的な目標がないからです。例えば可愛い女の子からモテたい!という男性が具体的な目標に向かって取り組んでいたら自己実現をするために行動しているので健康的な心理状態からの行動だと思います。しかしながら、神経症的な心理状態からの「女の子からモテたい!」という要求だと劣等感を埋め合わせるための目標に終わってしまっています。なので具体的な行動はしない、でも他人からはモテたいとなると心理的おかしくなるに決まっています。他人を必要以上に罵倒したり見下したり媚びたり…このような行動は劣等感から生じる自己不在(自己損失)な人がやってしまう行動なのです。

 

 自己不在な人は具体的な目標がないので最終的には全ての人から好かれようとします。そうすれば不安定な今の感情が安定すると思うからです。しかしこのような「嫌われたくない病」は自分自身が嫌いになる事故蔑視を増長し現実の世界の人間が嫌いになり常に戦争中の敵国にいるような感覚に陥ってしまうのです。

 

以下の文章はご職業でカウンセラーをされている方が嫌われたくない症候群について分かりやすく解説しているブログの記事です。一部抜粋して紹介したいと思います。

 

嫌われたくない症候群の人の特徴

・本来のありのままの自分に自信がない

・自分を安売りして他人に尽くそうとする

・ずるい人に都合よく使われているのに
「必要とされている」 と誤解する

・自分を偽っているから疲れている

・嫌われないように気を使ってはいるが、
その相手の心には関心がない

・表面的な付き合いは出来るが、深い話が出来ない

・自立できていないから、他人との対立を恐れている

・人とも自分とも、心に触れ合うことなく生きている

・自己防衛から、八方美人になる

・期待した好意が得られないと、敵意に変わる

・「怖い」思いがいつのまにか、外から攻撃を受けていると感じる

・孤独と恐怖が、いつまでもいつきまとう

・可哀想といわれたい

・自分の欠点や弱点、または優越感や見栄に異常に敏感

・本能で現実を動いていない。頭の中だけで動いている

・本音を出さない、多弁癖、告白癖 

 http://orus34.exblog.jp/10093077

 

 自分の人生を生き、他人に奉仕する、このような当たり前のメンタリティを持つことは非常に難しいです。個人個人で育ってきた環境は違いますし一概にこの方法を試せば自分らしく生きていけるという処方箋を出すのは非常に困難です。しかしながら戦うべき相手(嫌われたくない症候群)を分析しつつ自分に嘘をつかないという意識を常に心のどこかに置いておくだけで10年後、20年後の人生に大きな変化が出てくることでしょう。長いスパンで戦っていく必要があると思います。

アメリカの超格差社会について

 最近、マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画をよく見てます。彼の作品は非常にジョークと皮肉に溢れていて時間を感じさせない作りとなっていてエンターテイメント性も優れていて2本続けて視聴してしまいました(笑)

 

 

ボウリング・フォー・コロンバイン [Blu-ray]

ボウリング・フォー・コロンバイン [Blu-ray]

 

 

 

シッコ [DVD]

シッコ [DVD]

 

  この二作である。一つ目のボウリング・フォー・コロンバイン銃社会のアメリカの惨状を赤裸々に語った映画である。アメリカには子どもでも簡単に銃を買えてしまうような状況が存在しており銃による殺人が後をたたない。しかしながらアメリカから川を一本隔てたカナダにおいても銃は簡単に買えてしまう状況はアメリカと同じでありながら銃による殺人は圧倒的に少ない現状があったのは衝撃であった。

 やはり銃社会であり、しかもブッシュ政権時におけるテロへの恐怖心の煽りのように国民を恐怖心を掻き立てる政治体制が問題だったことがわかった。お互いがお互いを監視しあう監視社会が犯罪率を上げていた要因なのかと感じた。

 

 二つ目のシッコに関してはアメリカ人が加入している医療保険などにスポットライトをあてたアメリカ医療の汚点を探る映画だった。アメリカは強烈な資本主義であり国民の見方のような保険制度でさえも金儲けの道具として活用される様が描かれている。医療における格差は非常にアメリカでは激しく正直、アメリカに生まれなくてよかったなぁと感じてしまった。

 

 この2作を通してアメリカの格差社会についての個人的な意見を述べていきたいのだが、やはり日本人はアメリカに対しての憧れというか超大国として過大評価しすぎている傾向があると個人的に考えている。

 やはり世界一の経済大国であり、グローバル金融市場においての不動の地位を築いているのは紛れもない事実である。しかしながら明るいアメリカンドリームを成し遂げた人々の部分だけを我々は見ていないだろうか。

 現在、日本では非正規雇用労働者4割ほどいる。この非正規雇用労働者は企業からすれば重宝できる労働者であり日本経済が自由化した悪い結果の一つだと思う。いつでも首を切れる状況に立たせられ、物のように使い捨てされる労働者はまるで19世紀においての工場労働者のようだ。マルクス資本論を見直されてきている背景からしてあまりにも産業界や政治界の権力者は労働者を舐めすぎているのではないか?

 日本人は文句を言わず真面目に働くのが美徳とかんがえる人が多い。しかしそれは言葉を変えれば声が大きい人のいうがままになってしまう恐れがあるといってもよいだろう。経営者や政治家は我々と同じ人間であり間違いを必ず犯す。その時は労働者は団結して声をあげる事を躊躇ってはいけないし、権力者に対して強く「NO!」を突きつけることは民主主義国家の国民として当然の義務である。

 間違ったことに対して「NO!」と強く言うところから本当の民主主義が始まるのではないだろうか。私はそう考えている。

身近に潜むいじめの影

 僕は高校時代にひどい「いじめ」にあっていました。個人的な推測ですがいじめていた方々は「いじめていた」という感覚は皆無だったのではないでしょうか。

 いじめという行為は「いじり」などという曖昧で抽象的な言葉で正当化されることば多いです。僕の場合でも同じくクラスの友達に相談しても「それは君がいじられているだけだから」「愛されてる証拠じゃん」という返答をもらいました。

 人間はそこまで理性的な生き物ではありません。動物の一種であり僕のような自己主張が苦手で歯向かってこないような人間に対しては非情に振る舞うことだってあります。そうゆう相手に対して歯向かうことが当時の僕はできませんでした。相手に迎合してひたすら道化を演じていたのです。

 この道化を演じるということは大学生になった今でもついやってしまうことで、相手からの非難や批判が怖いことが根底にあると考えています。そのために道化を演じることで相手に媚びへつらい機嫌を取るような行動をしてしまうのです。

 腸が煮えくり返りそうな罵詈雑言を浴びても常に相手に対して害がないような人間であり続ける人生はそろそろ終わりにしたいなぁと考えてはいるのですがどうもいつもうまく実行することができない今日このごろです。ちっぽけなプライドですが傷つけられるのは避けられません。なので、しっかりと自分という確固とした自信を持って生きていきたいと考えています。

 

 辛い時に元気を貰った本を紹介しておきます。この本は心理学という学問を通していじめに関する具体的な精神分析をされています。

 

 

改憲をめぐる論争

 憲法の日である5月3日に改憲派護憲派などの両派が集会を開き様々な論争が繰り広げられた。日本国憲法は1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。この憲法が施行されてから67年経つがもはやこの敗戦直後に作られた憲法が対処できないほど国際情勢は緊迫化していて改憲しなければいけないのは時間の問題なのではないかと個人的に考えている。

 

 しかしながら総理大臣の個人的な思想があまりにも今回における憲法改正議論に色濃く反映されているのは事実ではないだろうか。憲法とは立憲主義に基づいた考え方からすれば「為政者を縛る法であり、憲法の制限下に政府などの政治的権力がある」とされている。そのため現在、安部首相がやっている行為は憲法改正という岸信介内閣総理大臣の悲願を達成するために奔走しているように感じてしまう。

 

 たしかに強力なリーダーシップを兼ね備えた首相とは言うのは国民から非常に頼りにされ支持率は高い水準に保たれるだろう。しかしながら日本国は国民主権の国家である。従って国会で過半数を超えている自民党の独走と安倍政権による独断によって簡単に決めていい問題ではないはずだ。

 

 与党や野党そして一般の国民の意見を広く聞いた上での改憲を強く僕は望んでいる。

社会学って面白いなぁと

 最近、経済学や政治学などのほかに社会学という学問に興味を持ち始めてきた。無料公開されている放送大学の講義動画を15分くらい視聴して面白さに目覚めてしまった。

 

 社会学とは人と人との関係などを分析する学問らしい?(定義が間違っていたらごめんなさい)例えば、直接的な家族のような繋がりであったり間接的な繋がりであったりなどの関係のあり方全体を含めて社会学として捉えるらしい。

 

 うーん。深い学問だなぁ。人と人とのが関わることって無限大にあるし…家族、友達、恋人、学校のクラスメイトなどなど。

 すごい活用性のある学問だなぁと感じてしまった。

 

 数ある社会学者の中でも個人的に興味を惹かれたのは宮台真司氏という社会学者だ。

 

 

宮台 真司(みやだい しんじ、1959年3月3日 - )は、日本社会学者。学位は社会学博士東京大学1987年)。首都大学東京教授宮城県仙台市出身。

 

宮台真司 - Wikipedia

 

 この方は非行少女いわゆる売買春を行う女子学生などとの会話を通じたフィールドワークをした社会学者として有名だそうだ。それ以外にも数々もの著作を出しており良くも悪くも刺激的な発言が多いことが知られているそうだ。

 

 早く読んでみたいなぁとワクワクしている。

 

 今日は、まとまりがないブログだったなぁ(笑)

 

マイケル・ムーア監督作品「キャピタリズム マネーは踊る」を視て

 2009年の映画なんですけど今視ても本当に爽快のドキュメンタリー。

 

 

 何が爽快ってこのマイケル・ムーア監督の行動力と捜査力によって暴かれる資本主義という名の大義名分によって神格化されている反民主主義の現実である。1%の富裕層が95%以上の貧困層の富を握っているアメリカ経済の悲惨さがインタビューなどの映像からひしひしと伝わってきた。

 金融中心の資本主義の汚さであったり民主的に運営されていかなればいけないアメリカ政府とウォール街の金融業界との癒着が非常に腹立たしいと感じてしまった。なんていうかあまりにも道徳的、道義的に腐敗しすぎたアメリカの経済体制に言葉を失った。

 

 現在、僕は中小企業論という科目を大学で履修して勉強していて、その講義で分かったことだが中小企業は大企業(グローバル経済において大活躍する会社)の手助けというか発展に協力する存在としてしか存在意義を持たせてもらえず大企業支援中心の経済政策がこれまで進めてきたのではないかと個人的に考えている。

 

 経済の主役は誰だろうか?

 

 懸命に働く労働者に決まっている。金に目が眩んだ資本家にはハッキリとブレーキを掛けさせる必要がこれからの日本にとってもアメリカにとってもありそうだ。

「安定」という幻想を捨てよう

 以下のランキングを見て欲しい。

 

 

 1~50位まで見たことがある企業で埋め尽くされている。当たり前のような話だが人は安定した生活を望む。これは人間が持っている本能のようなものだ。お腹いっぱいご飯が食べたいだとか欲しいゲームソフトを買いたいだとか自らの欲求を満たすためにはそれなりの給料を得てそのお金で欲望を満たすしかない。しかもその給料を安定的に供給するには大企業の正社員が一番適切だと考えるのはごくごく当たり前のことだろう。就活生の親たちも「やっぱり結婚とかして子育てにはお金がかかるのよ!公務員か大企業の正社員になりなさい!」という檄を飛ばすのも理解できる。

 

 しかしながらこの世に真の安定など存在するだろうか?

たとえ高倍率の名門大学を卒業して某有名企業に就職したからといって「やっぱり違うなぁ…」と考え直してフリーターになる若者がいたりだとか、念願の公務員になったのはいいけれど民間企業に就職した同級生と比べて想定外に安い給料に泣く泣くルーチンワークを行う人など「安定」という言葉は一つの企業または職場などに40年以上定年まで勤めあげるのが前提で語られている幻想にすぎないと僕は考えている。この世の中にこんな超人存在するだろうか?経済成長率がバンバン伸びていた昭和や平成初期の頃には仕事人としてあまり能力がなくても企業や地方公共団体や国はそこで働いている労働者に対して良い待遇で働かさることができた。しかしながら現在では不安定な国際情勢、揺れ動く金融市場、グローバル化によって大打撃を受けつつある日本経済など不安定要因が多すぎるため確固とした独立心がなければこの大海を泳ぎ切ることはできないだろう。

 

 したがって、一つ僕が提案したいのは心の平安すなわち大衆に迎合しない安定した心を持つことである。大衆に迎合し他人の目を気にするからこそ「安定」という言葉に振り回され自分自身にしかない長所を捨て劣等感に苦しむのだと考える。現代人には心の安定のほうが先なのではないだろうか。

 

 最後に非常に尊敬している福沢諭吉先生の言葉でこのブログの記事の最後としたい。

「一身独立して一国独立す」

 

 独立することが現代の我々に求められている真の安定なのである。