日和見アカデメイア

ゆるく書いていきます!

日本人的な自我に関する個人的考察

 このブログでは学術的な知識や研究成果などを抜きにして個人的な考察を書いている。自分が持っている少ない学問的材料を元にして粗末な料理を作っているという状況なのだがある種の脳トレーニングの一つだと考えており知識のまとめのようなブログにしたくないという個人的な考えからこの手法をとっている。なので引用が少なかったりソースが曖昧だ!という意見を持つ読者も多いと思うがご了承いただきたい。仮に今日起こっているニュースに関して論じる場合は出来る限り事実のソースを示しながら論じていきたいと考えている。

 今回のテーマは自我についてだ。日本人は自我が他国の国民に比べて確立していないと言われている。そのため自殺の問題であったり異常なコンプレックスを持つ若者が多かったりなど僕自身の周りでも非常に感じることが多い。僕自身、非常に劣等感が強い人間であったため自分の存在意義を他人に求めている部分が多かった。そのため優越感に浸りたいがために他人を見下す態度を取ることも多かったし感情的に自分自身を殺し自己不在な状態が長年続いていたと今振り返ってみると感じている。以下において日本人における自我について論じていきたい。

 

  • なぜ劣等感を持つ人が多いのだろう

 日々の大学生活を見てみてもツイッターで自分がフォローしているユーザーの方々を見ても劣等感に苦しんでいる人が本当に多いと感じている。「自分に自信が持てない」「低学歴で死にたい」「低所得だから周りが羨ましい」などなど様々な劣等感に関する声が飛び交っている。日本人独特の僻む習慣はいろんな所に隠れていて僕達の生活に潜んでいる。そんな劣等感だが、なぜここまで自分自身の欠点に固執し苦しむ人がいるのだろうか。自分を受け入れたくない人が多いのだろうか。周りと一つの価値をピックアップして競争したがるのだろうか。その答えは自我の確立にあると思っている。

 日本人は非常に共同体に属し安心感を得る所属感に幸福を感じる民族であるといってよいだろう。村落共同体や会社共同体などの強固な共同体意識を持つことによってアイデンティティが確立され自分らしく人生を生きることができるというシステムだ。なので周りの意見や評価などは自分の存在意義への直結した材料であるため共同体からの追放が怖く共同体への依存が激しくなると考える。そのため会社共同体がデフレによる不景気により不安定になればなるほど生きがいを失う人は現れ、自殺者が増えていくという悪循環が起こってしまう。

 従って異常なまでの劣等感の正体は共同体の不安定さからくる心理的な不安感であると考えている。不安なため何かに頼りたいそのためには自分より下の人を見下し優越感を得てある種の特権階級な自分を演じたいのである。相対的にしか自分の価値を測ることができなかった日本人にとっては絶対的な自分の価値を自分で認めることは困難であり今すぐ改善できる問題ではないだろう。

 

  • 自分自身は価値があるのだと認めること

 見た目への劣等感であったり知性に対する劣等感など様々な劣等感があるがこれらは自分自身が生み出した幻想による理想像である。自我が形成されていなければ理想は海よりも深く山よりも高くなってしまう。なので常に一番にいなければ気が済まない辛い心理状況に陥ってしまう。

 このような自己不在な状況は自我の形成によって改善することが可能なのだがこの自我の形成の仕方は自分を受け入れることではないだろうか。自分を受け入れさえすれば何も恐れることはない。共同体から追放されようが自分は自分なのである。誰からも値札を付けられる存在ではない。しかしながら、受け入れるという当たり前のことが今の日本人にとって非常に辛いことなのである。

 日本は戦争に負け欧米的な価値観に染まってしまった。身長は高いほうがいい、鼻は高いほうがかっこいい、一重まぶたはかっこ悪いなどなど根底にあるのは白色人種に対する劣等感なのだ。この民族病のような劣等感を変えていかなければ日本は心理的にも国際的にも独立することは不可能だ。アジア人にはアジア人の良さがある。その良さを最大限に尊重する社会にしていかなければいけない。

 

  • まとめ

1、中間的な会社共同体の衰退から心理的な不安を抱える人が増えた。

2、劣等感は自己不在と自己嫌悪が原因である。改善方法は自分を受け入れること。

3、劣等感によっては白色人種に対する劣等感も含まれている。

中小企業を駆逐しちゃう?これからのニッポン

 日本人の7割以上が働く場所が中小企業である。皆が公務員&大企業で働いてる国ではない。中小企業こそ日本の宝といっても僕は言い過ぎではないと思っている。

 

 そんな中小企業だがグローバル化という国際分業体制においての駆逐化が進んでいるのは皆さんもご存知のことであろう。大企業はコスト減を求め海外移転を繰り返している。このため大企業の下請け企業など地域工業集積地帯への打撃は日に日に大きくなっている。私が生まれ育った岩手県に関しても北上市などを代表とする自動車企業などの工場群が展開されていて同級生などは高校を卒業と同時に自動車工場に就職する人がたくさんいた。

 

 しかしながら今日においてはグローバル化の低賃金地域の争奪戦により東北の岩手県東南アジア、東アジアに敗北をしてしまった。そのため産業の空洞化減少が深刻な問題となっている。

 

 このようなグローバル競争は最終的には大企業のみが富を独占する19世紀のマルクスが想像していたような時代に突入するのでは?と考えてしまう。何かの本のキャッチフレーズに「大昔にブラック企業と戦った先輩、それがマルクス」と書いてありうまい言い方だなぁと関心してしまった。

 

 労働者の立場を弱くしたいのは企業の立場からすれば当たり前だ。中でも非正規労働者は使い捨てができるから都合がいい存在である。例えるなら貢がせるだけ貢がせといてポイっと恋人の男を捨てる性悪厚化粧ナルシスト女のようなものだ(この例があっているかどうかはみなさんの判断にお任せします)今日の政府はこの貢がせるだけ貢がせて捨てられる労働者を生み出そうと頑張っているようにしか見えない。安倍内閣の金融政策・財政政策・外交姿勢に関してはリーダーシップを感じる部分もあり賛同できる部分は応援してきたつもりだ。しかしアベノミクス第三の矢である成長戦略については熟考を重ねる必要があるのではないだろうか。ある民間議員は「正社員が最大の既得権益だ!」と主張したらしい。この発言に対しての私の考えは部分的には賛成である。その賛成する部分としては転職の困難さを解消できないものかという部分だ。大学卒業または高校卒業と同時に職業訓練は企業が研修等で行い企業に忠誠を誓うような社員を育成する新卒採用制度や年功序列制度などを改良していくべきだと私は考えている。人によって人生は何通りもあり一つの優等生的な新卒者ばかりを優遇する入社制度は時代遅れなのではないだろうか。

 

 いつの時代も資本主義のマネーゲームは繰り広げられている。正直そこまでお金を儲けて何がしたいのだろうか?

「幸せな生活?豪華な暮らし?静かな田舎でのまったりした生活?それとも目的なんてない?」

 

 資本主義の魔法にかかった人は鋼鉄の心を持ったロボットになり労働者から搾取する時代はいつになっても変わらない。こんな時代だからこそアルフレッド・アドラーが提唱する共同意識の考え方が重要になってくる。競争だ!と周りを敵として見てしまうことは非常に人生にとってマイナスだ。経済はぐるぐる回っていて結局は皆の頑張りは自分に、自分の頑張りは皆に循環している。そうゆうシンプルな構造のなかでグローバル化はシンプルな構造を複雑にしているのではないだろうか?

 

 こうゆう世の中だからこそ生産的な行動ばかりに目を向けないで非生産的な喜びを見出したいものだ。

現代のペスト「嫌われたくない症候群」について

 僕は最近、加藤諦三さんの本をよく読みます。彼の著書は一貫して「嫌われたくない病」について明快に分析しており、実際に嫌われたくない病の僕にとっては目からウロコのオンパレードでした(笑)

 今日のブログにおいてはこの「嫌われたくない症候群」について自分なりのまとめを論じていきたいと思っています。

 

 多かれ少なかれ、万人からチヤホヤされたいという欲求を持ってる方多いのではないでしょうか?

 「可愛い女の子からモテたい!」「イケメンの男性から言い寄られたい!」「億万長者の会社社長になってみんなから尊敬されたい!」などなど…

 しかしながらこれらの無茶な要求って果たして本当の自分が求めている要求なのでしょうか。僕が思うに彼らは劣等感からくる不安定な気持ちを押さえつけるために無茶な要求を自らの心にしていると思っています。

 なぜ僕がそう思うかといえば彼らの自らの要求には具体的な目標がないからです。例えば可愛い女の子からモテたい!という男性が具体的な目標に向かって取り組んでいたら自己実現をするために行動しているので健康的な心理状態からの行動だと思います。しかしながら、神経症的な心理状態からの「女の子からモテたい!」という要求だと劣等感を埋め合わせるための目標に終わってしまっています。なので具体的な行動はしない、でも他人からはモテたいとなると心理的おかしくなるに決まっています。他人を必要以上に罵倒したり見下したり媚びたり…このような行動は劣等感から生じる自己不在(自己損失)な人がやってしまう行動なのです。

 

 自己不在な人は具体的な目標がないので最終的には全ての人から好かれようとします。そうすれば不安定な今の感情が安定すると思うからです。しかしこのような「嫌われたくない病」は自分自身が嫌いになる事故蔑視を増長し現実の世界の人間が嫌いになり常に戦争中の敵国にいるような感覚に陥ってしまうのです。

 

以下の文章はご職業でカウンセラーをされている方が嫌われたくない症候群について分かりやすく解説しているブログの記事です。一部抜粋して紹介したいと思います。

 

嫌われたくない症候群の人の特徴

・本来のありのままの自分に自信がない

・自分を安売りして他人に尽くそうとする

・ずるい人に都合よく使われているのに
「必要とされている」 と誤解する

・自分を偽っているから疲れている

・嫌われないように気を使ってはいるが、
その相手の心には関心がない

・表面的な付き合いは出来るが、深い話が出来ない

・自立できていないから、他人との対立を恐れている

・人とも自分とも、心に触れ合うことなく生きている

・自己防衛から、八方美人になる

・期待した好意が得られないと、敵意に変わる

・「怖い」思いがいつのまにか、外から攻撃を受けていると感じる

・孤独と恐怖が、いつまでもいつきまとう

・可哀想といわれたい

・自分の欠点や弱点、または優越感や見栄に異常に敏感

・本能で現実を動いていない。頭の中だけで動いている

・本音を出さない、多弁癖、告白癖 

 http://orus34.exblog.jp/10093077

 

 自分の人生を生き、他人に奉仕する、このような当たり前のメンタリティを持つことは非常に難しいです。個人個人で育ってきた環境は違いますし一概にこの方法を試せば自分らしく生きていけるという処方箋を出すのは非常に困難です。しかしながら戦うべき相手(嫌われたくない症候群)を分析しつつ自分に嘘をつかないという意識を常に心のどこかに置いておくだけで10年後、20年後の人生に大きな変化が出てくることでしょう。長いスパンで戦っていく必要があると思います。

アメリカの超格差社会について

 最近、マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画をよく見てます。彼の作品は非常にジョークと皮肉に溢れていて時間を感じさせない作りとなっていてエンターテイメント性も優れていて2本続けて視聴してしまいました(笑)

 

 

ボウリング・フォー・コロンバイン [Blu-ray]

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シッコ [DVD]

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  この二作である。一つ目のボウリング・フォー・コロンバイン銃社会のアメリカの惨状を赤裸々に語った映画である。アメリカには子どもでも簡単に銃を買えてしまうような状況が存在しており銃による殺人が後をたたない。しかしながらアメリカから川を一本隔てたカナダにおいても銃は簡単に買えてしまう状況はアメリカと同じでありながら銃による殺人は圧倒的に少ない現状があったのは衝撃であった。

 やはり銃社会であり、しかもブッシュ政権時におけるテロへの恐怖心の煽りのように国民を恐怖心を掻き立てる政治体制が問題だったことがわかった。お互いがお互いを監視しあう監視社会が犯罪率を上げていた要因なのかと感じた。

 

 二つ目のシッコに関してはアメリカ人が加入している医療保険などにスポットライトをあてたアメリカ医療の汚点を探る映画だった。アメリカは強烈な資本主義であり国民の見方のような保険制度でさえも金儲けの道具として活用される様が描かれている。医療における格差は非常にアメリカでは激しく正直、アメリカに生まれなくてよかったなぁと感じてしまった。

 

 この2作を通してアメリカの格差社会についての個人的な意見を述べていきたいのだが、やはり日本人はアメリカに対しての憧れというか超大国として過大評価しすぎている傾向があると個人的に考えている。

 やはり世界一の経済大国であり、グローバル金融市場においての不動の地位を築いているのは紛れもない事実である。しかしながら明るいアメリカンドリームを成し遂げた人々の部分だけを我々は見ていないだろうか。

 現在、日本では非正規雇用労働者4割ほどいる。この非正規雇用労働者は企業からすれば重宝できる労働者であり日本経済が自由化した悪い結果の一つだと思う。いつでも首を切れる状況に立たせられ、物のように使い捨てされる労働者はまるで19世紀においての工場労働者のようだ。マルクス資本論を見直されてきている背景からしてあまりにも産業界や政治界の権力者は労働者を舐めすぎているのではないか?

 日本人は文句を言わず真面目に働くのが美徳とかんがえる人が多い。しかしそれは言葉を変えれば声が大きい人のいうがままになってしまう恐れがあるといってもよいだろう。経営者や政治家は我々と同じ人間であり間違いを必ず犯す。その時は労働者は団結して声をあげる事を躊躇ってはいけないし、権力者に対して強く「NO!」を突きつけることは民主主義国家の国民として当然の義務である。

 間違ったことに対して「NO!」と強く言うところから本当の民主主義が始まるのではないだろうか。私はそう考えている。

身近に潜むいじめの影

 僕は高校時代にひどい「いじめ」にあっていました。個人的な推測ですがいじめていた方々は「いじめていた」という感覚は皆無だったのではないでしょうか。

 いじめという行為は「いじり」などという曖昧で抽象的な言葉で正当化されることば多いです。僕の場合でも同じくクラスの友達に相談しても「それは君がいじられているだけだから」「愛されてる証拠じゃん」という返答をもらいました。

 人間はそこまで理性的な生き物ではありません。動物の一種であり僕のような自己主張が苦手で歯向かってこないような人間に対しては非情に振る舞うことだってあります。そうゆう相手に対して歯向かうことが当時の僕はできませんでした。相手に迎合してひたすら道化を演じていたのです。

 この道化を演じるということは大学生になった今でもついやってしまうことで、相手からの非難や批判が怖いことが根底にあると考えています。そのために道化を演じることで相手に媚びへつらい機嫌を取るような行動をしてしまうのです。

 腸が煮えくり返りそうな罵詈雑言を浴びても常に相手に対して害がないような人間であり続ける人生はそろそろ終わりにしたいなぁと考えてはいるのですがどうもいつもうまく実行することができない今日このごろです。ちっぽけなプライドですが傷つけられるのは避けられません。なので、しっかりと自分という確固とした自信を持って生きていきたいと考えています。

 

 辛い時に元気を貰った本を紹介しておきます。この本は心理学という学問を通していじめに関する具体的な精神分析をされています。

 

 

改憲をめぐる論争

 憲法の日である5月3日に改憲派護憲派などの両派が集会を開き様々な論争が繰り広げられた。日本国憲法は1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。この憲法が施行されてから67年経つがもはやこの敗戦直後に作られた憲法が対処できないほど国際情勢は緊迫化していて改憲しなければいけないのは時間の問題なのではないかと個人的に考えている。

 

 しかしながら総理大臣の個人的な思想があまりにも今回における憲法改正議論に色濃く反映されているのは事実ではないだろうか。憲法とは立憲主義に基づいた考え方からすれば「為政者を縛る法であり、憲法の制限下に政府などの政治的権力がある」とされている。そのため現在、安部首相がやっている行為は憲法改正という岸信介内閣総理大臣の悲願を達成するために奔走しているように感じてしまう。

 

 たしかに強力なリーダーシップを兼ね備えた首相とは言うのは国民から非常に頼りにされ支持率は高い水準に保たれるだろう。しかしながら日本国は国民主権の国家である。従って国会で過半数を超えている自民党の独走と安倍政権による独断によって簡単に決めていい問題ではないはずだ。

 

 与党や野党そして一般の国民の意見を広く聞いた上での改憲を強く僕は望んでいる。

社会学って面白いなぁと

 最近、経済学や政治学などのほかに社会学という学問に興味を持ち始めてきた。無料公開されている放送大学の講義動画を15分くらい視聴して面白さに目覚めてしまった。

 

 社会学とは人と人との関係などを分析する学問らしい?(定義が間違っていたらごめんなさい)例えば、直接的な家族のような繋がりであったり間接的な繋がりであったりなどの関係のあり方全体を含めて社会学として捉えるらしい。

 

 うーん。深い学問だなぁ。人と人とのが関わることって無限大にあるし…家族、友達、恋人、学校のクラスメイトなどなど。

 すごい活用性のある学問だなぁと感じてしまった。

 

 数ある社会学者の中でも個人的に興味を惹かれたのは宮台真司氏という社会学者だ。

 

 

宮台 真司(みやだい しんじ、1959年3月3日 - )は、日本社会学者。学位は社会学博士東京大学1987年)。首都大学東京教授宮城県仙台市出身。

 

宮台真司 - Wikipedia

 

 この方は非行少女いわゆる売買春を行う女子学生などとの会話を通じたフィールドワークをした社会学者として有名だそうだ。それ以外にも数々もの著作を出しており良くも悪くも刺激的な発言が多いことが知られているそうだ。

 

 早く読んでみたいなぁとワクワクしている。

 

 今日は、まとまりがないブログだったなぁ(笑)