日和見アカデメイア

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菩薩という生き方

 菩薩とはサンスクリット語のボーディ・サットヴァの音訳で、悩み苦しむ人々を救う修行者の事を指す。

 

 十二縁起という人間が苦しみを抱えるメカニズムを説明した仏教概念からすると、人間は元々、馬鹿であり苦しむように方向づけられている。どんなに学歴がある人間でも、どんなに容姿端麗な人間でも生き物として馬鹿であり、愚かな行動をしてしまう。

 

 無智という馬鹿フィルターがない心は皆、清浄であり仏様のような心を皆持っているとされている。この無智というフィルターを外し、本来の綺麗な心を取り戻すのが仏教の修行なのだ。

 

 しかしながら、誰でも修行ができるわけじゃない。悩み苦しみ、日々の生活に心を痛めている人間は修行どころではない。生き物は平等じゃない。平等という概念は近代という稀な時代にできた素晴らしい概念だが、理想は程遠いのだ。

 

 そんな修行どころではない一般人を救うのだ菩薩なのである。菩薩は愛ではなく慈悲で人々を救う。ただ寄り添い、気持ちをすくい取り、今という時間の大切さを人々に説いて行く。

 

 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩をご存知だろうか。この詩にはどこか菩薩心を感じてしまう。

 

 

雨ニモマケズ

宮沢賢治

 

 雨にも負けず

風にも負けず

雪にも夏の暑さにも負けぬ

丈夫な体をもち

慾は無く

決して怒らず

いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と

味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを

自分を勘定に入れずに

よく見聞きし分かり

そして忘れず

野原の松の林の陰の

小さな萱ぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば

行って看病してやり

西に疲れた母あれば

行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば

行って怖がらなくてもいいと言い

北に喧嘩や訴訟があれば

つまらないからやめろと言い

日照りの時は涙を流し

寒さの夏はおろおろ歩き

みんなにでくのぼーと呼ばれ

褒められもせず

苦にもされず

そういうものに

わたしは

なりたい

 

 自分の欲望ではなく、利他心で人を助ける。この詩は利他心という菩薩として大切な事をわかりやすく表現している。

 

 実際には煩悩に塗れた凡夫である僕らが、常に利他心で人に接することはできない。だけど、少しでも見習うことはできるはずだ。最後にもうひとつ素敵な詩を載せて終わりにしたい。僕が一番好きな高村光太郎の詩である。今、悩みや苦しみを抱えている人はきっと元気がでるんじゃないかな。

 

 

 

最低にして最高の道 

高村光太郎

 

    もう止(よ)さう。
    ちひさな利慾とちひさな不平と、
    ちひさなぐちとちひさな怒りと、
    さういふうるさいけちなものは、
    ああ、きれいにもう止さう。


    わたくし事のいざこざに、
    みにくい皺(しわ)を縦によせて
    この世を地獄に住むのは止さう。
    

    こそこそと裏から裏へ
    うす汚い企みをやるのは止さう。
    この世の抜駆けはもう止さう。
    

    さういふ事はともかく忘れて
    みんなと一緒に大きく生きよう。
    

    見えもかけ値もない裸のこころで
    らくらくと、のびのびと、
    あの空を仰いでわれらは生きよう。


    泣くも笑ふもみんなと一緒に
    最低にして最高の道をゆかう。