日和見アカデメイア

ゆるく書いていきます!

生きづらさ という言葉の向こう側

 社会は僕にとってまるで針の雨のようだ。無防備な裸体で飛び出した僕にとって、それは七転八倒の苦しみに近い。漠然と抱えている「生きづらさ」の原因はなんだろうか。今回のブログはその僕自身の生きづらさについて少し書かせてもらいたい。自分語りいシリーズである。少しでも共感を与えられたらこれ以上とない喜びである。

 

 まず、働くという国民の義務である行為が僕にとって辛い。パブリックな空間においては過呼吸になるし、叱責・忠告を受けると相手に対して恐怖感が現れてしまって、業務どころではなくなる。神経・精神的病なのかと思うくらい社会に適合できない。

 

 以上が今の自分の状態である。できない・・・できない・・・と念仏のように唱えるのもそろそろ飽きてきたので、なぜできないのか、なぜ生きづらいのかというのを論理的に考えてみたい。

 

 確かに誰にとっても労働は苦しみの一つなのかもしれない。ツイッターフェイスブックを見れば仕事の愚痴や不満、文句の嵐だ。集団の中では様々な感情のもつれがあるし、営利企業においては運転資金、余剰資金を稼ぐために日夜、創意工夫が求められる。営業担当にはそれなりのノルマが課せられるし、事務系専門職においても会社組織を円滑に回すために様々なことが要求される。

 

 しかしながら、僕ら(勝手に仲間を作り出してしまった)が抱える生きづらさってのは仕事が辛いという部分というより、もっと深く根源的な部分な気がするのだ。なので社会の先輩方からいつも言われるような「それは甘えだよ」とか「みんな頑張ってるんだから」みたいなアドバイスは全然響かない。

 

 僕が思うに、彼らのアドバイスは同じ土俵に立っている社会人に向けたアドバイスだということだ。僕らはどちらかというと社会にいない。社会にというフィールドの外にいる非社会的存在なのである。非社会的存在とは何かというと自己の実存が社会というフィールドの中に位置づけられていない存在だということだ。漠然としたセルフイメージでなんとか社会に溶け込もうとしているが、なかなか上手くいかない。僕自身、お調子者キャラなど職場ではピエロになり、なんとか生き延びようと頑張ったが半年が限界だった。自分がない、自分が社会に存在していない、それが僕らの根源的な生きづらさの原因なのである。

 

 仏教思想には諸法無我という言葉がある。これは、すべての現象は常に変化していて確実な実態はないという意味である。自分という存在も、なにかも条件と条件が組み合わさって今、存在しているわけであり、その存在自体も常に変化している(皮膚の老化や脳細胞の死滅など)ので、確実な個体ではない。それがブッダが悟った真理である。しかしながら、僕らはこの俗世間で生きなければならない。そのためにも、便宜上の自我であったり、自分というものを想像力の中でも持たなければいけない存在なのだ。

 

 その自分という幻想をどうやって持てばいいのか、それともこのまま自分という幻想を持たないで生活していく術を開発すればいいのか。答えはわからない。僕らのような生きづらさを肌身で感じていない人にとっても、自分という実存を考えるのは今の時代の課題なのかもしれない。ここを逃げずに考えることが僕らには課せられていると思う。