日和見アカデメイア

ゆるく書いていきます!

身近に潜むいじめの影

 僕は高校時代にひどい「いじめ」にあっていました。個人的な推測ですがいじめていた方々は「いじめていた」という感覚は皆無だったのではないでしょうか。

 いじめという行為は「いじり」などという曖昧で抽象的な言葉で正当化されることば多いです。僕の場合でも同じくクラスの友達に相談しても「それは君がいじられているだけだから」「愛されてる証拠じゃん」という返答をもらいました。

 人間はそこまで理性的な生き物ではありません。動物の一種であり僕のような自己主張が苦手で歯向かってこないような人間に対しては非情に振る舞うことだってあります。そうゆう相手に対して歯向かうことが当時の僕はできませんでした。相手に迎合してひたすら道化を演じていたのです。

 この道化を演じるということは大学生になった今でもついやってしまうことで、相手からの非難や批判が怖いことが根底にあると考えています。そのために道化を演じることで相手に媚びへつらい機嫌を取るような行動をしてしまうのです。

 腸が煮えくり返りそうな罵詈雑言を浴びても常に相手に対して害がないような人間であり続ける人生はそろそろ終わりにしたいなぁと考えてはいるのですがどうもいつもうまく実行することができない今日このごろです。ちっぽけなプライドですが傷つけられるのは避けられません。なので、しっかりと自分という確固とした自信を持って生きていきたいと考えています。

 

 辛い時に元気を貰った本を紹介しておきます。この本は心理学という学問を通していじめに関する具体的な精神分析をされています。

 

 

改憲をめぐる論争

 憲法の日である5月3日に改憲派護憲派などの両派が集会を開き様々な論争が繰り広げられた。日本国憲法は1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。この憲法が施行されてから67年経つがもはやこの敗戦直後に作られた憲法が対処できないほど国際情勢は緊迫化していて改憲しなければいけないのは時間の問題なのではないかと個人的に考えている。

 

 しかしながら総理大臣の個人的な思想があまりにも今回における憲法改正議論に色濃く反映されているのは事実ではないだろうか。憲法とは立憲主義に基づいた考え方からすれば「為政者を縛る法であり、憲法の制限下に政府などの政治的権力がある」とされている。そのため現在、安部首相がやっている行為は憲法改正という岸信介内閣総理大臣の悲願を達成するために奔走しているように感じてしまう。

 

 たしかに強力なリーダーシップを兼ね備えた首相とは言うのは国民から非常に頼りにされ支持率は高い水準に保たれるだろう。しかしながら日本国は国民主権の国家である。従って国会で過半数を超えている自民党の独走と安倍政権による独断によって簡単に決めていい問題ではないはずだ。

 

 与党や野党そして一般の国民の意見を広く聞いた上での改憲を強く僕は望んでいる。

社会学って面白いなぁと

 最近、経済学や政治学などのほかに社会学という学問に興味を持ち始めてきた。無料公開されている放送大学の講義動画を15分くらい視聴して面白さに目覚めてしまった。

 

 社会学とは人と人との関係などを分析する学問らしい?(定義が間違っていたらごめんなさい)例えば、直接的な家族のような繋がりであったり間接的な繋がりであったりなどの関係のあり方全体を含めて社会学として捉えるらしい。

 

 うーん。深い学問だなぁ。人と人とのが関わることって無限大にあるし…家族、友達、恋人、学校のクラスメイトなどなど。

 すごい活用性のある学問だなぁと感じてしまった。

 

 数ある社会学者の中でも個人的に興味を惹かれたのは宮台真司氏という社会学者だ。

 

 

宮台 真司(みやだい しんじ、1959年3月3日 - )は、日本社会学者。学位は社会学博士東京大学1987年)。首都大学東京教授宮城県仙台市出身。

 

宮台真司 - Wikipedia

 

 この方は非行少女いわゆる売買春を行う女子学生などとの会話を通じたフィールドワークをした社会学者として有名だそうだ。それ以外にも数々もの著作を出しており良くも悪くも刺激的な発言が多いことが知られているそうだ。

 

 早く読んでみたいなぁとワクワクしている。

 

 今日は、まとまりがないブログだったなぁ(笑)

 

マイケル・ムーア監督作品「キャピタリズム マネーは踊る」を視て

 2009年の映画なんですけど今視ても本当に爽快のドキュメンタリー。

 

 

 何が爽快ってこのマイケル・ムーア監督の行動力と捜査力によって暴かれる資本主義という名の大義名分によって神格化されている反民主主義の現実である。1%の富裕層が95%以上の貧困層の富を握っているアメリカ経済の悲惨さがインタビューなどの映像からひしひしと伝わってきた。

 金融中心の資本主義の汚さであったり民主的に運営されていかなればいけないアメリカ政府とウォール街の金融業界との癒着が非常に腹立たしいと感じてしまった。なんていうかあまりにも道徳的、道義的に腐敗しすぎたアメリカの経済体制に言葉を失った。

 

 現在、僕は中小企業論という科目を大学で履修して勉強していて、その講義で分かったことだが中小企業は大企業(グローバル経済において大活躍する会社)の手助けというか発展に協力する存在としてしか存在意義を持たせてもらえず大企業支援中心の経済政策がこれまで進めてきたのではないかと個人的に考えている。

 

 経済の主役は誰だろうか?

 

 懸命に働く労働者に決まっている。金に目が眩んだ資本家にはハッキリとブレーキを掛けさせる必要がこれからの日本にとってもアメリカにとってもありそうだ。

「安定」という幻想を捨てよう

 以下のランキングを見て欲しい。

 

 

 1~50位まで見たことがある企業で埋め尽くされている。当たり前のような話だが人は安定した生活を望む。これは人間が持っている本能のようなものだ。お腹いっぱいご飯が食べたいだとか欲しいゲームソフトを買いたいだとか自らの欲求を満たすためにはそれなりの給料を得てそのお金で欲望を満たすしかない。しかもその給料を安定的に供給するには大企業の正社員が一番適切だと考えるのはごくごく当たり前のことだろう。就活生の親たちも「やっぱり結婚とかして子育てにはお金がかかるのよ!公務員か大企業の正社員になりなさい!」という檄を飛ばすのも理解できる。

 

 しかしながらこの世に真の安定など存在するだろうか?

たとえ高倍率の名門大学を卒業して某有名企業に就職したからといって「やっぱり違うなぁ…」と考え直してフリーターになる若者がいたりだとか、念願の公務員になったのはいいけれど民間企業に就職した同級生と比べて想定外に安い給料に泣く泣くルーチンワークを行う人など「安定」という言葉は一つの企業または職場などに40年以上定年まで勤めあげるのが前提で語られている幻想にすぎないと僕は考えている。この世の中にこんな超人存在するだろうか?経済成長率がバンバン伸びていた昭和や平成初期の頃には仕事人としてあまり能力がなくても企業や地方公共団体や国はそこで働いている労働者に対して良い待遇で働かさることができた。しかしながら現在では不安定な国際情勢、揺れ動く金融市場、グローバル化によって大打撃を受けつつある日本経済など不安定要因が多すぎるため確固とした独立心がなければこの大海を泳ぎ切ることはできないだろう。

 

 したがって、一つ僕が提案したいのは心の平安すなわち大衆に迎合しない安定した心を持つことである。大衆に迎合し他人の目を気にするからこそ「安定」という言葉に振り回され自分自身にしかない長所を捨て劣等感に苦しむのだと考える。現代人には心の安定のほうが先なのではないだろうか。

 

 最後に非常に尊敬している福沢諭吉先生の言葉でこのブログの記事の最後としたい。

「一身独立して一国独立す」

 

 独立することが現代の我々に求められている真の安定なのである。

日本経済の行く末

 安部政権が掲げた「デフレ脱却」、この目標は果たして達成されつつあるのでしょうか?経済学は未発達の学問であり穴だらけの分野であるため机上の空論では効果的な経済政策だと思っていても実は一部の高所得者のためだけの政策になっていたりなど国民全体の経済成長に結びつかない場合も多いのです。

 

 日本の企業の99.7%は中小企業であり日本の産業を支えています。下町の町工場の先進的な技術であったり日本独自の「おもてなし」な接客をする旅館などなど日本の素晴らしい生活環境は彼ら中小企業のおかげで成り立っているといっても過言ではないと思っています。しかしながら残念ですが現政権は彼らに対して厳しい政策を打ち出すことが多くて僕自身とても悲しいです。(外国人労働者法人税減税、消費税増税など)

 

 国際競争力とかグローバル化という言葉は非常に魅力的ですがそれ以上に日本国独自の経済体制である「新卒雇用」であったり「終身雇用制」「株の持ち合い」「系列会社」などなど日本はオリジナリティあふれるやり方で他国と差別化を図ってきました。今現在においてもアメリカや中国に従属するのではなく他国との差別化を図る日本独自の経済体制を考えるべきなのではないかと私は考えています。

風俗産業に関する個人的な考察

 「風俗」と聞いて皆さんはどのようなイメージを抱くだろうか?ちなみにネット辞典でお馴染みのgoo辞典での風俗という言葉はこのような説明になっている。

 

 ある時代やある社会における、生活上の習わしやしきたり。風習。「明治の―」「性―」 風俗営業のこと。また、それに関係する事柄。「―産業」 身なり。服装。
「旦那らしき―の人」〈人・梅児誉美・初〉 身ぶりや態度。身のこなし。
「物和らかな―にとんと見とれて」〈伎・韓人漢文〉
 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/190353/m0u/ 

 

 

 1番目の意味での風俗というのは「風習」という言葉と同意義だと捉えることができる。もはや私達のコミュニケーションの中でこの意味で風俗という言葉を使う人はあまりいないだろう。2番目の風俗営業とはすなわち「日本独自の風営法風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)で規制されている料理店やダンスホール、飲食店などの総称」である。もちろんこの風俗営業にはこの記事のテーマである性風俗産業も含まれていることは言うまでもない。この記事ではこの辞典の2番目に意味に該当する性風俗産業に関する個人的な考察を論じていきたい。 なぜ私がこの「性風俗産業」に関する記事を書きたいと思ったかと言えばこのブログでも紹介した「ヤバい経済学」に書いていたセックスに関する章を読んでからだ。以下がその章の一部である。

それじゃセックスはどうだろう?人間の営みの中でも一番非合理的たるセックスが合理的な価格理論に反応するなんてありえない、そうでしょう? そりゃそうだろっていう例外がいくつかあるけれど、それを除けば、普通私たちはセックスの価格なんて考えない。売春はそんな例外の一つだ。結婚もそうだ。オトコどもには、高級ディナーは賢い投資でセックスはその配当だと思っているヤツらがいるみたいだけど。
出典:東洋経済新報社 スティーヴン・D・レヴィット スティーヴン・J・ダブナー著 望月 衛 訳 ヤバい経済学 p.303より 

  

 どこか私達の中には性的なものに対するタブー意識が根強く存在することは否めない。そんななか経済学の世界ではその性的な行為であるセックスに関しても価格理論を用いて分析を行うアプローチがあることを知って私は驚いてしまった。

 

「セックスを需要と供給の経済学的な考え方で考えるって…こんな場面にも当てはめることができるのか…!」

 

 率直な感想である。たしかにセックスを売り物にしている産業として有名な性風俗産業の需要は強大であると言わざるを得ない。ちなみに日本の全体の風俗嬢の数は30万人だそうだ。しかもそこから捻出される市場規模は3.6兆円であるという…。凄まじい市場規模。男の性である性欲を見事に商売に結びつける性風俗産業はある種「究極のサービス業」と定義することができるのではないだろうか?風俗嬢に対するベネフィットは非常に多くリッチな暮らしをしている女性も多いはずだ。しかしながら社会的リスクや道徳的な罪悪感(もしかしたら消失してるのかもしれないけど)と戦いぬくには少なすぎる報酬なのかなぁと個人的に考えてしまう。

 男性はなくて女性にしかない武器を使いお金を稼ぐ性風俗産業は古代ギリシャの時代から脈々と続いてきた産業であることが今日わかっている。かつて我が国日本においても吉原など国営の遊郭などを設置して男性の欲望を満たしていた。これからも分かる通り人間も動物であり食欲や睡眠欲と同時に性欲もあるのだ。これがなければ今ここにいる私達人類も絶滅していたに違いない。

 この増大する性欲(男性の場合は本能として多種多様な女性に遺伝子を与えたい)を合理的になおかつ産業に結びつけているこの性風俗産業の流れは差別の対象としてみるのはあまりにも軽率であって、一つの産業として再認識することが求められていると考えている。