日和見アカデメイア

ゆるく書いていきます!

スカイプで出会った19歳の青年の話

 たまにネットの海を放浪して、知らない奴と話したくなるときがある。自我をむき出しにした対話というのも面白いもので、大抵一回きりの関係だがスリリングな感覚が味わえる(でも大抵、終わったあと虚しさを感じるのだけど笑)

 

 そんな放浪の旅の途中で、19歳の青年と対話した。彼は高校を卒業してから引きこもっていた。そのためか社会全体、人間全体に対するヘイトが溜まっていたようで、かなり攻撃的で上から目線の嫌な奴だった。どこか昔の自分を見ているようで懐かしい気分になった。

 

 彼は世界全体を憎んでいて、彼の攻撃的な性格はかつて自分をいじめた奴への復讐が感じられた。彼は高校三年間、アルバイトをして社会に出ていた。僕以上に社会経験があるではないか!wwwとびっくりした。結構、頑張ってたじゃないか!と言ったら少し彼の攻撃性が和らいだ気がした。

 

 彼とは2時間近く話して、少し友達になった。彼はこんなに話を聞いてもらった経験がないと言っていた。たしかに2,3回対話をやめようと思ったが、なんとか彼の闇に近づきたいという好奇心から頑張ったw

 

 対話というのは難しい。生まれた場所や環境、使っている言語の感覚、身体感覚など微妙に異なっていることも多いので、共通点だと思っていた所が違うときがある。その差異によって、すれ違ったりするのだが、その差異を理解するとなかなか面白い発見がある。なかなか骨の折れる作業だけど、やってみると達成感があって楽しかったりする。

競争したくない

 男としての自信がないなぁって最近、気づく。今回の恋愛で三角関係になったり、女性を争うっていう経験をして、競争って嫌だなぁと感じてしまった。だって恋愛って競争じゃないですか。男として強いとか逞しいっていうのは競争で勝てそうな人?っていうか遺伝子的に強そうってことだと思うんだけど、競争ってしんどい。

 

 女性も女性で遺伝子的に強そうな男性を見分けた上で付き合ったりいろいろ大変だと思う。遺伝子的に強そうな人間が、人間的な優しさがあるとは限らない。暴力的なサイコパスな人間とかがモテるみたいな事を脳科学者が言っていたが、動物的な強さと人間的な優しさの乖離ってのが結構あるみたいだ。

 

 競争していい仕事を手に入れたり、いいパートナーを手に入れたり、競争して得られることって多いけど本当にしんどいよね。この競争を楽しめるコツってないのだろうか。どうしても苦行に感じてしまう。仏教だと四苦八苦っていって、楽しい事をしていても常に苦しみが存在するっていうけどその通りだなぁと。苦しみ、つまり不足感や不満感なんかは常に付きまとう。苦しいなぁ。

 

 今回の失恋で、徹底的に世俗的な快楽とかを求める競争が嫌になってしまった。けれども、僕も人間なんだなぁと感じた。なぜなら。好きな人と一緒にいたいなぁと思う、執着の心がここまであるとは思いもしなかったから。もしかしたら、仏教でいう妄想なのかもしれないけど。相手をありのままにみないで、自分の理想を反映させた妄想としてみるのは恋愛のよくあるパターンだと思う。それが行き過ぎたのかなぁと感じてしまった。

 

 なんなんだろう。競争から降りて、小さく生きることが一番いいのだろうけど、強すぎるエゴが、自分の中にあるのを今は感じている。他人よりも優れていたい、他者から承認されたい、素晴らしいパートナーに愛されたい。ドロドロとした承認欲求が僕の中にあることを嫌というほど感じてしまった。元々、感じてはいたけど知性化してごまかしていたんだろう。怠け者のくせにプライドだけは強い自分に嫌気がさしてしまった。

 

 競争したくないってことはつまり負けたくないってことだ。嫌な思い、辛い思い、惨めな思い、苦しい思いをしたくないってことだ。強すぎるプライドがそうさせているのだろう。だからこそ現在、ニート状態なのかなぁと。負けたっていいじゃないか、苦しくたっていいじゃないか、惨めだっていいじゃないか。何かをするということは結果がつきもので結果なんて、その人の意味付けで180度見方が変わるんだから。と自分に言い聞かせて、自分のしたい仕事の面接に行こうかと考えている。

 

 僕の今の目標は戦うこと、競争から逃げないこと、負けたってくじけないこと。これだ。2000年以上前からわかっている人生は苦しみに満ちているっていうこと。これを受け入れた上で、何か自分にできることを探して戦っていきたい。今まで逃げてきた分、ブランクはあるけれども逃げてはだめだ。もっと苦しくなる。ていうかどっちにしても苦しいのだけれど。

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ロマンティックが終わった瞬間

 僕はとても劣等感が強い人間で、優しくされるとコロっと言ってしまう純情ボーイみたいな所がある。なので、恋愛に関して言えば、小悪魔的な女子との壮絶な戦いの歴史といっても過言ではないだろう。

 

 僕は、一言でいうと愛情飢餓感が強い人間で、寂しがり屋だ。寂しがり屋は、常に他人の承認を求め、それを離さないようにすがってしまう。それを抑圧し、寂しいという気持ちを開放してあげないと、苦しくなって無気力になり欝気味になってしまったりする。非常にめんどくさい性格だ。恋愛というフィールドでは、その寂しさを埋めたい、愛情が欲しい、構ってほしいという、気持ちが洪水のように溢れてしまい苦しい戦いの現場と化してしまう。

 

 前の記事でも書いたように今回、痛い失恋をしてしまった。いろいろ考えた結果、彼女が求めたのは強い感情で押さえつけてくれる人だったのかなぁと思ってしまう。つまり、ある種のモラハラみたいな感じの恐怖感を与えてほしかったのかなぁと。なんでこんなことを思うかというと、彼女はどこか婉曲した愛情表現をしてきたから。あれを愛情表現といっていいものかわからないが、理不尽だし不合理だし、論理的一貫性もないめちゃくちゃな事をしてきた。好きと嫌いが目まぐるしく入れ替わり、離れてみては、近づいてみたり、古巣に帰ってみたり、どこか挑発的な行動してきて、かなりの気分屋だったと思う。

 

 この強烈な気分屋に対して僕は迎合する道をとった。彼女の論理や感情、思考を一身に受け入れ理解しようとする道をとった。

 

 これは仮説だけど、彼女はそんなこと願ってなかったのかもしれない。形では嬉しがっていたが、潜在意識では「支配されたい」「叱られたい」「管理されたい」という歪んだ愛情を求めたのかもしれない。僕にはその道はとれなかった。少し僕が怒ってしまって「怖い」と言われてしまえば、引いて謝ってしまったし、強く彼女を支配しようとすることができなかった。むしろ、僕はすがって愛情を求めてしまったから彼女は去ってしまったのだと思う。

 

 彼女に対しては怒り半分、感謝半分という気持ちだ。正直、かなり振り回されたのは疲れたし、ひどいことも結構言われた。しかし、自分の依存心の強さや怖さ、人間の心理の深淵、そして人同士理解し合うことの難しさを知ることができた。

 

 もし、もう一度彼女に会えるのならば感謝を伝えたいし、彼女のキャリアなどを応援したい。僕自身本当に素敵な思い出を貰った。本当にありがとうと言いたい。

 

 自分語りでめちゃくちゃな文章かもしれないけど、今の気持ちを吐露したつもりだ。まだ気持ちに整理はついてないけど、きっと僕自身の何かの糧になるだろうと信じている。

 

 

失恋の悲しさについて

 最近、僕は失恋をしてしまいました笑 何がいけなかったのか、元々相性が悪かったのか、求めすぎたがために冷められてしまったのか、答えは風の中です。

 

 失恋の悲しさというのは、その本人の精神的自立の度合いによって重くもなれば軽くもなるのだと思います。例えば、恋人がいなくても一人で楽しいことを発見できる自立した人であれば、復活も早いでしょう。しかし、恋人と一心同体で常に不足感を抱えている僕のような人間だと失恋の悲しさは計り知れないものになるはずです。

 

 今回の恋では、情念の不安定さと心変わりの怖さ、恋愛の依存性などいろいろな事を勉強することができました。言葉が不確定で通じ合うのさえも大変な遠距離恋愛だったので、難易度はハンパではなかったです。

 

 僕は彼女の素直な人柄と、がんばりやさんな所に惹かれて好きになりました。一生続くのではないかと思った泡沫の夢でしたが、儚く散ってしまいました。

 

 きっと、これで彼女は楽になれたのかな?と思います。つらいですが、僕にとっては乗り越えなければならない時なのだと思います。

 

 

菩薩という生き方

 菩薩とはサンスクリット語のボーディ・サットヴァの音訳で、悩み苦しむ人々を救う修行者の事を指す。

 

 十二縁起という人間が苦しみを抱えるメカニズムを説明した仏教概念からすると、人間は元々、馬鹿であり苦しむように方向づけられている。どんなに学歴がある人間でも、どんなに容姿端麗な人間でも生き物として馬鹿であり、愚かな行動をしてしまう。

 

 無智という馬鹿フィルターがない心は皆、清浄であり仏様のような心を皆持っているとされている。この無智というフィルターを外し、本来の綺麗な心を取り戻すのが仏教の修行なのだ。

 

 しかしながら、誰でも修行ができるわけじゃない。悩み苦しみ、日々の生活に心を痛めている人間は修行どころではない。生き物は平等じゃない。平等という概念は近代という稀な時代にできた素晴らしい概念だが、理想は程遠いのだ。

 

 そんな修行どころではない一般人を救うのだ菩薩なのである。菩薩は愛ではなく慈悲で人々を救う。ただ寄り添い、気持ちをすくい取り、今という時間の大切さを人々に説いて行く。

 

 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩をご存知だろうか。この詩にはどこか菩薩心を感じてしまう。

 

 

雨ニモマケズ

宮沢賢治

 

 雨にも負けず

風にも負けず

雪にも夏の暑さにも負けぬ

丈夫な体をもち

慾は無く

決して怒らず

いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と

味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを

自分を勘定に入れずに

よく見聞きし分かり

そして忘れず

野原の松の林の陰の

小さな萱ぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば

行って看病してやり

西に疲れた母あれば

行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば

行って怖がらなくてもいいと言い

北に喧嘩や訴訟があれば

つまらないからやめろと言い

日照りの時は涙を流し

寒さの夏はおろおろ歩き

みんなにでくのぼーと呼ばれ

褒められもせず

苦にもされず

そういうものに

わたしは

なりたい

 

 自分の欲望ではなく、利他心で人を助ける。この詩は利他心という菩薩として大切な事をわかりやすく表現している。

 

 実際には煩悩に塗れた凡夫である僕らが、常に利他心で人に接することはできない。だけど、少しでも見習うことはできるはずだ。最後にもうひとつ素敵な詩を載せて終わりにしたい。僕が一番好きな高村光太郎の詩である。今、悩みや苦しみを抱えている人はきっと元気がでるんじゃないかな。

 

 

 

最低にして最高の道 

高村光太郎

 

    もう止(よ)さう。
    ちひさな利慾とちひさな不平と、
    ちひさなぐちとちひさな怒りと、
    さういふうるさいけちなものは、
    ああ、きれいにもう止さう。


    わたくし事のいざこざに、
    みにくい皺(しわ)を縦によせて
    この世を地獄に住むのは止さう。
    

    こそこそと裏から裏へ
    うす汚い企みをやるのは止さう。
    この世の抜駆けはもう止さう。
    

    さういふ事はともかく忘れて
    みんなと一緒に大きく生きよう。
    

    見えもかけ値もない裸のこころで
    らくらくと、のびのびと、
    あの空を仰いでわれらは生きよう。


    泣くも笑ふもみんなと一緒に
    最低にして最高の道をゆかう。 

 

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ダウンタウンについて

 おれはダウンタウンが好きである。なんていうか、あの怖そうなルックスと愛らしいコンビ仲から生まれるトークが好きである。

 

 ぶっちゃけ彼らの過去のコントとか番組は見たことないんだけど、とにかく好きである。

 

 おれが落ち込んだ時、浜ちゃんみたいな奴がいたら思いっきり頭叩いてくれるんだろうなぁとか、凹んだときに考えてしまう。

 

 家族とか友達とか越えたコンビ仲っていいなぁ。男女とか関係ないだろうね、ああなると。

 

 もちろん松ちゃんも好きだ。最近、話し方が松ちゃんになってきている自分がいる。あの話し方は大好きだ。

 

 ダウンタウン見てると、笑いっていいなぁ、笑うと元気がでるなぁ、幸せになるなぁと実感する。

 

 笑いながら怒れるひとなんていないもんね。笑顔は最高のボランティアだと誰かが言っていたけどその通りだと思う。

 

 おれも少しでも人に幸せを与えられる人になりたい。憧れのダウンタウンみたいに皆に幸せを与えられる人になりたいなぁ。まだまだ、自分の事で精一杯だけどさ。

 

 かなりまとまりのないブログで申し訳ない。ふとこんなことを考えていました。

メジャーコードのような素直な音に僕はなりたい

 僕はギターで弾くメジャーコードの音色が大好きだ。CやDが特に好きで、その音から始まるビートルズのレット・イット・ビーやサザンオールスターズ真夏の果実も大好きだ。

 

 メジャーコードの音は素直で、気持ちが良くて、爽やかで、不純物が1つもない素敵な音をしている。朝でも夜でも昼でも元気がないときに、爪弾くメジャーコードの音色は、僕の暗い気持ちを解きほぐしてくれる。

 

 しかし、僕の気持ちはメジャーコードのような綺麗な和音を奏でてはいない。ある意味で不協和音だと思う。言ってる事とやってる事がチグハグで、自分でも何がしたいのかわからないし、死にたいのか生きたいのか、努力したいのかしたくないのか、わけがわからなくなる時がある。

 

 変な二層構造が僕の気持ちを狂わせている。その構造が僕の不協和音を作り出している気がするのだ。

 

 まず僕は自分に厳しい。しかし、厳しい割に努力をしない。自分は煩悩にまみれた凡夫にも関わらず、意識のほうでは聖人君子として振る舞いたいと思っている。しかし、聖人君子になろうとする努力をしていないのだ。このアンビバレンツな心の分裂が、僕を苦しめていることに最近気づいてきた。

 

 僕は今、半分ニートみたいなもんなんだけど、世間でいう肩書きを持つ人間に酷い嫉妬を覚えてしまう。これも自分が許せない、受け入れられないという謎の自分に対する厳しさから出た感情だと言えるだろう。僕も意識の上では、彼らのような肩書きを持つ人間でありたいと考えているに違いない。しかし、現実の僕は努力もしたくないし、寝ていたい怠惰な人間である。妄想によってヴェールに覆われている自分と、現実の凡夫な自分の乖離が非常に心に深い亀裂を生み出しているに違いない。

 

 今日、YouTube斎藤一人さんという人の動画をたまたま見た。彼は有名なビジネスマンなのだが、彼の言葉に僕は少し救われた気がした。彼が言うには、自分に優しくできる人が人に優しくできるというのだ。逆に自分に厳しい人は、他人には何倍も厳しい。なるほど、僕もそういう所がかなりある。

 

 自分の怠惰な部分を受け入れないと、努力をする元気が湧いてこない。そりゃそうだ、「お前はダメだ!」と常に言われている人間がやる気を出して努力をするなんて、よっぽどバイタリティがないとできない。僕は、自分が頑張れない構造を自ら生み出していたのだ。

 

 きっと自分を受け入れる道は険しく長いのだろうけど、一日に何回も「今の自分でいいんだよ、そのままでいいんだよ、生きてるだけでいいんだよ。」と優しく声をかけてあげたいと思う。だって、他人に優しい素敵な和音を奏でたいから。