日和見アカデメイア

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ライフ・イズ・ビューティフルを改めて視聴した

 美しい映画というのがある。何度見ても新しい発見があり、涙が溢れてくる映画。僕はそこまで映画に詳しくないが、このライフ・イズ・ビューティフルという映画は生きることの素晴らしさを改めて教えてくれる映画だと思う。

 

ライフ・イズ・ビューティフル [DVD]

ライフ・イズ・ビューティフル [DVD]

 

  この映画は、ロベルト・ベニーニ監督・主演作品でアカデミー賞も受賞している。この映画では、イタリア系ユダヤ人のグイド達がナチスドイツによる強制収容所に収監され、生と死が交差する極限の状態での家族愛が描かれる作品である。

 

 僕は主人公のグイドという楽天的な男が大好きだ。一つ一つのユーモアが悲壮感溢れる状況を氷塊させてくれる。本当のポジティブシンキングとはこうゆうことなのかと思ってしまった。

 

 どんなにつらい状況でも、どんなにつらい現実が待っていようとも、息子と妻に対して楽しく振舞うグイドの姿は楽しくそして切なく感じた。

 

 僕は、常に自己憐憫に浸ってしまう人間だ。強制収容所に収監されてしまったら絶望に打ちひしがれて発狂してしまうに違いない。果てしない未来を永遠の考えてしまうだろう。このグイドの思想は、絶望を希望に変えてくれる素敵なヒントが隠されていると思った。僕も一ミリでも彼のように生きてみたい。

 

 タイトルの「人生は素晴らしい」というメッセージ。このメッセージこそ現代の鬱屈した時代にこそピッタリな言葉だと思う。僕はこの言葉をつらい時に思い出したい。

 

生きづらさ という言葉の向こう側

 社会は僕にとってまるで針の雨のようだ。無防備な裸体で飛び出した僕にとって、それは七転八倒の苦しみに近い。漠然と抱えている「生きづらさ」の原因はなんだろうか。今回のブログはその僕自身の生きづらさについて少し書かせてもらいたい。自分語りいシリーズである。少しでも共感を与えられたらこれ以上とない喜びである。

 

 まず、働くという国民の義務である行為が僕にとって辛い。パブリックな空間においては過呼吸になるし、叱責・忠告を受けると相手に対して恐怖感が現れてしまって、業務どころではなくなる。神経・精神的病なのかと思うくらい社会に適合できない。

 

 以上が今の自分の状態である。できない・・・できない・・・と念仏のように唱えるのもそろそろ飽きてきたので、なぜできないのか、なぜ生きづらいのかというのを論理的に考えてみたい。

 

 確かに誰にとっても労働は苦しみの一つなのかもしれない。ツイッターフェイスブックを見れば仕事の愚痴や不満、文句の嵐だ。集団の中では様々な感情のもつれがあるし、営利企業においては運転資金、余剰資金を稼ぐために日夜、創意工夫が求められる。営業担当にはそれなりのノルマが課せられるし、事務系専門職においても会社組織を円滑に回すために様々なことが要求される。

 

 しかしながら、僕ら(勝手に仲間を作り出してしまった)が抱える生きづらさってのは仕事が辛いという部分というより、もっと深く根源的な部分な気がするのだ。なので社会の先輩方からいつも言われるような「それは甘えだよ」とか「みんな頑張ってるんだから」みたいなアドバイスは全然響かない。

 

 僕が思うに、彼らのアドバイスは同じ土俵に立っている社会人に向けたアドバイスだということだ。僕らはどちらかというと社会にいない。社会にというフィールドの外にいる非社会的存在なのである。非社会的存在とは何かというと自己の実存が社会というフィールドの中に位置づけられていない存在だということだ。漠然としたセルフイメージでなんとか社会に溶け込もうとしているが、なかなか上手くいかない。僕自身、お調子者キャラなど職場ではピエロになり、なんとか生き延びようと頑張ったが半年が限界だった。自分がない、自分が社会に存在していない、それが僕らの根源的な生きづらさの原因なのである。

 

 仏教思想には諸法無我という言葉がある。これは、すべての現象は常に変化していて確実な実態はないという意味である。自分という存在も、なにかも条件と条件が組み合わさって今、存在しているわけであり、その存在自体も常に変化している(皮膚の老化や脳細胞の死滅など)ので、確実な個体ではない。それがブッダが悟った真理である。しかしながら、僕らはこの俗世間で生きなければならない。そのためにも、便宜上の自我であったり、自分というものを想像力の中でも持たなければいけない存在なのだ。

 

 その自分という幻想をどうやって持てばいいのか、それともこのまま自分という幻想を持たないで生活していく術を開発すればいいのか。答えはわからない。僕らのような生きづらさを肌身で感じていない人にとっても、自分という実存を考えるのは今の時代の課題なのかもしれない。ここを逃げずに考えることが僕らには課せられていると思う。

 

 

久しぶりに本が読めている

 うつ状態になると活字が読めなくなるらしい。「いやいや、そんなことないでしょ!」と疑っていたが、実際に抑うつ状態になった時、本当に読めなくなった。ギリギリ漫画が読めるくらいで、小説や実用本の類が読めなくなってしまった。

 

 活字を読むという行為は、思ったよりも集中力を使うため、うつ状態で落ち込んでいると頭に文字が入ってこない。なんていうんだろうか、悲観的でネガティブ思考が頭に満ち溢れているので、情報の入る隙間がないって感じ。

 

 そのため、毎月5~7冊くらい本を読んでいたサイクルが止まってしまった。7月は漫画一冊くらいしか読めなかった。まぁ、落ち込んだ理由はいろいろある。将来の不安とか、恋愛でうまくいかなかったとかいろいろw でも知識欲の塊みたいな僕の読書ペースがここまで落ちたことはビックリしてしまった。抑うつ状態恐るべし…

 

 しかしながら人間の心というのは元気を取り戻すものである。心理学用語でレジリエンスというらしいが、心はショックな出来事を乗り越える力を持っているらしい。このレジリエンス効果なのだろうか、本が少しづつ読めるようになった。

 

 今読んでいる本は、飯田史彦さんの「人生の価値」という本である。人生哲学の本なんだけど、読みやすくて半分くらいまで読んだ。結構、スピリチュアル系の本で、人間が死んだあとの意識体の話や精神世界の話がメインなので、最初は戸惑ったけど視野が狭くなっていた自分にとって、これ以上とないくらいの栄養ドリンクになった。この本によれば、苦しいことや辛いことがあっても、その人生は順調であり、成長の修行場だという。ふむふむ、元気が出る。

 

 

人生の価値―私たちは、どのように生きるべきか (PHP文庫)
 

 

 

 朝は絶望的な気持ちで目覚めるので、まだ気持ちは回復していないと思う。でも少しづつ本を読んで、視野を広げたり、新しいことに挑戦して自分を高めたり、楽しい人生に向けて一歩づつ頑張っていきたい。

昔の日記を見返してみること

 雨がザーッつと家の屋根に降り続いている。しとしととした雨より、豪雨のほうがなんとなく好きだ。災害になるレベルは嫌だけど、豪雨の轟音が心を洗い流してくれる気がするからだ。朝、起床するときの僕の心は非常に抑うつ的で、「あー世界滅亡しないかなぁ」とガチめに思ってしまうくらい頭がぶっ飛んでる。

 

 そんなぶっ飛んでる頭に轟音の豪雨が降り注ぐのも悪くなかった。なんていえばいいのか、マインドフルネス?瞑想的?スピリチュアリズム?潜在意識が解放されるっていうか、余計な雑念が消えて、フラットな気持ちになれるんですよね。今まで、外の音とか景色とかを感じる余裕なんてなくて、五感を大切にしない生き方をしてきた。けれども、あらためて五感をフルに使って雨音や、空気の感触などを楽しんでみると、生きるっていうことのもう一つの意味っていうのがわかってくるきがする。意味っていうのかわからないけれども、生まれてただ死んでいくという無情。でもそれが当たり前であり、だからこそ人間は日々一生懸命生きて、瞬間瞬間の充実感を得ていくのだと思う。

 

 瞑想的な心理状態だったので、昔の日記を見返してみた。日記というよりは岡田斗司夫さんが考案した、スマートノートと呼ばれるノート術で書いたやつなんだけどね。それでも昔からの自分の癖っていうか、一ヶ月前何書いてたかなぁみたいな自己分析はできる。

 

 三ヶ月前から現在にいたるまでの、ノートを見てみると恋愛の事しか書いてなかった。「こんなに恋に恋する学生みたいな心境だったのか…」とビックリしてしまった。だって書いてあることと言ったら、「LINEが返ってこない!不安」とか「飲み会に行った、変な男いなければいいけど」みたいなヤフー知恵袋でバリバリ相談されてるような内容なのだ(笑)我ながら笑ってしまった。やべー恋は盲目じゃ。

 

 恋愛に代表されるような思考暴走みたいな状態って、五感を軽視した生き方をしてしまうんだよなぁと改めて実感しました。もう客観性もなにもないもの(笑)

 

 恋人がいなくてもいいじゃない、そのうちできるかもよ?仕事ができなくてもいいじゃない、そのうちできるようになるかもよ?寂しくたっていいじゃない、必至に生きようともがいてるんだから。心の中で起こるグジャグジャした想念は、心の叫びであるので優しく抱きしめたあげたい。そしてそこから、今、目の前にある自然や人物、風景に心を向けていけば不安や苦しみは少しづつ減るのではないだろうか。

かっこいい人生を送る

 今、僕は人生のどん底にいる。多分いると思う。目標を失い、フラフラして虚無感あふれる生活を送っている。

 

 日々の楽しみだった遠距離の彼女との交流も途絶え、大好きだった哲学の本や宗教の本も読む気がなくなってしまった。現在、仕事をしていない空白期間中なので、家で無為徒食な生活を送ってしまっている。

 

 や、、、やばいwwwww

 

 僕が寝ていようが、勉強していようが、人生を楽しんでいようが、地球は回っているのだ。人生はたった80年しかないし、時間は待ってくれない。

 

 自らの絶望感にひたり、ナルシスティックな自己憐憫に浸る時間など僕には残されていない!!!

 

 この状況を打破するにはどうしたらいいのか。そうだ!自分の人生を楽しくするためにやりたいことをピックアップしていって、実際に行動に起こす!これしかない。

 

 取り敢えず、環境から変える。ネットの時間を減らして、外に出る。これをするだけで結構、意識が変わるのではないだろうか。

 

 そして、他人に期待することをやめてみる。僕は基本的に他人を信用したり、他人に見返りを求める恩着せがましい奴なんだなぁと自己分析の結果感じたw

 なので、他人は基本的に期待に答えてくれない!というマインドセットで生活してみたいと思う。ていうか、仏教徒して当然のマインドセットだよねw だって、人間だれしも煩悩に塗れた自己中人間なんだから、他人の期待に答える人ばっかりじゃない!

 

 そして、他人ともっと交流することをやってみようと思う。もちろん、ネットの外のリアルでね。何かサークル活動でも始めてみようかなぁと思っている。やっぱり得意のギターとか歌関係かなぁって思っているけど、まだ未定だ。バンドなんか組んだりしたら楽しいのかな。

 

 あとは、仕事だよね。仕事に関しては、8月から本格的に働こうかなぁと。受けたい会社もあるし、どうせ駄目だろ…wと積極的な諦めの気持ちで面接にトライしていきたい。やってみたい仕事は会計事務所の補助とか!将来、税理士になりたいっていう夢があるからね。もちろん、簿記の勉強も再開しますよー。

 

 そんな感じで、がむちゃんが素敵になる計画の始まりを告げる記事でした。文章もうまくなりたいね。ライターとしての腕も磨きたい。ああー、なんだかやる気が出てきたぞ!一生懸命生きてやるぞ!

 

 

 

 

スカイプで出会った19歳の青年の話

 たまにネットの海を放浪して、知らない奴と話したくなるときがある。自我をむき出しにした対話というのも面白いもので、大抵一回きりの関係だがスリリングな感覚が味わえる(でも大抵、終わったあと虚しさを感じるのだけど笑)

 

 そんな放浪の旅の途中で、19歳の青年と対話した。彼は高校を卒業してから引きこもっていた。そのためか社会全体、人間全体に対するヘイトが溜まっていたようで、かなり攻撃的で上から目線の嫌な奴だった。どこか昔の自分を見ているようで懐かしい気分になった。

 

 彼は世界全体を憎んでいて、彼の攻撃的な性格はかつて自分をいじめた奴への復讐が感じられた。彼は高校三年間、アルバイトをして社会に出ていた。僕以上に社会経験があるではないか!wwwとびっくりした。結構、頑張ってたじゃないか!と言ったら少し彼の攻撃性が和らいだ気がした。

 

 彼とは2時間近く話して、少し友達になった。彼はこんなに話を聞いてもらった経験がないと言っていた。たしかに2,3回対話をやめようと思ったが、なんとか彼の闇に近づきたいという好奇心から頑張ったw

 

 対話というのは難しい。生まれた場所や環境、使っている言語の感覚、身体感覚など微妙に異なっていることも多いので、共通点だと思っていた所が違うときがある。その差異によって、すれ違ったりするのだが、その差異を理解するとなかなか面白い発見がある。なかなか骨の折れる作業だけど、やってみると達成感があって楽しかったりする。

競争したくない

 男としての自信がないなぁって最近、気づく。今回の恋愛で三角関係になったり、女性を争うっていう経験をして、競争って嫌だなぁと感じてしまった。だって恋愛って競争じゃないですか。男として強いとか逞しいっていうのは競争で勝てそうな人?っていうか遺伝子的に強そうってことだと思うんだけど、競争ってしんどい。

 

 女性も女性で遺伝子的に強そうな男性を見分けた上で付き合ったりいろいろ大変だと思う。遺伝子的に強そうな人間が、人間的な優しさがあるとは限らない。暴力的なサイコパスな人間とかがモテるみたいな事を脳科学者が言っていたが、動物的な強さと人間的な優しさの乖離ってのが結構あるみたいだ。

 

 競争していい仕事を手に入れたり、いいパートナーを手に入れたり、競争して得られることって多いけど本当にしんどいよね。この競争を楽しめるコツってないのだろうか。どうしても苦行に感じてしまう。仏教だと四苦八苦っていって、楽しい事をしていても常に苦しみが存在するっていうけどその通りだなぁと。苦しみ、つまり不足感や不満感なんかは常に付きまとう。苦しいなぁ。

 

 今回の失恋で、徹底的に世俗的な快楽とかを求める競争が嫌になってしまった。けれども、僕も人間なんだなぁと感じた。なぜなら。好きな人と一緒にいたいなぁと思う、執着の心がここまであるとは思いもしなかったから。もしかしたら、仏教でいう妄想なのかもしれないけど。相手をありのままにみないで、自分の理想を反映させた妄想としてみるのは恋愛のよくあるパターンだと思う。それが行き過ぎたのかなぁと感じてしまった。

 

 なんなんだろう。競争から降りて、小さく生きることが一番いいのだろうけど、強すぎるエゴが、自分の中にあるのを今は感じている。他人よりも優れていたい、他者から承認されたい、素晴らしいパートナーに愛されたい。ドロドロとした承認欲求が僕の中にあることを嫌というほど感じてしまった。元々、感じてはいたけど知性化してごまかしていたんだろう。怠け者のくせにプライドだけは強い自分に嫌気がさしてしまった。

 

 競争したくないってことはつまり負けたくないってことだ。嫌な思い、辛い思い、惨めな思い、苦しい思いをしたくないってことだ。強すぎるプライドがそうさせているのだろう。だからこそ現在、ニート状態なのかなぁと。負けたっていいじゃないか、苦しくたっていいじゃないか、惨めだっていいじゃないか。何かをするということは結果がつきもので結果なんて、その人の意味付けで180度見方が変わるんだから。と自分に言い聞かせて、自分のしたい仕事の面接に行こうかと考えている。

 

 僕の今の目標は戦うこと、競争から逃げないこと、負けたってくじけないこと。これだ。2000年以上前からわかっている人生は苦しみに満ちているっていうこと。これを受け入れた上で、何か自分にできることを探して戦っていきたい。今まで逃げてきた分、ブランクはあるけれども逃げてはだめだ。もっと苦しくなる。ていうかどっちにしても苦しいのだけれど。